番外編・本棚を晒し、語る。

大学の頃所属していた某組織から、「本棚の写真を撮ってコメントをつけよ」との指令が下ったので、この場を使ってやってみることにする。blogの更新にもなって一石二鳥だ。

本棚を晒す――。よくよく考えてみたら、これって相当に「恥ずかしい行為」なんじゃないか。その本棚の持ち主の趣味・嗜好はもちろんのこと、性格や為人までを色濃く反映させるんじゃなかろうか。web上で本棚を再現する「ブクログ」というサービスがあるが、あんなものじゃ比較にならない。「どんな本棚に」「何を」「どう」並べているのか。他人の部屋に上がりこんだような、妙なリアル感を感じさせるんじゃなかろうかと、内心ビクビクしているのだが・・。

基本スペック


まぁご覧のとおりである。1500wの2450h。デカい。デカいのだが、薄型なのと白色の外観で圧迫感はさしてない。というか全然ない。東京にいた頃だから、買ってから4年にはなるだろう。組立式で確か3万ぐらいだったと思う。本の重みで棚板が湾曲している箇所も多いが、安物なので仕方がない。当時、某先輩に手伝ってもらって半日かけて組立てたのが懐かしい。画像をクリックして、オリジナルサイズで表示させると背表紙が見えます。他にも色々見えます。本来ならモザイクものだな。
購入したサイト⇒http://www.e-syodana.com/

運用履歴(1)

この本棚を買うにあたって、当時持っていた本の数を数え、全てが収まる大きさをチョイスした経験がある。それまでは、押入れのダンボールに本を詰め込み、直近で買ったものや特にお気に入りのものだけを、カラーボックス的な何かに並べていたような有様だった。収納というより放擲に近い。本好きなら絶対共感してくれるだろうと思うのだが、己の蔵書を棚一面にビッシリ並べ、全ての背表紙を睥睨するという自己満足的行為。あれがやってみたくてたまらなかった。という訳で、当時(というか今もだが)本棚などにかける金としては異例の額をはたき、購入に踏み切ったのだった。

が。本は増える。それは「地球は回る」と同様、普遍の真理である。なぜなら全ての本読みは読書中毒だからである。「1年に1冊しか読まない」とか、「昔は読んでいたが今は1冊も読まない」とかいう人は、おそらくまずいない。ゆえに全ての人間は「本を読む人間」か「本を読まない人間」に二分され、それゆえ蔵書というものは増える運命にある。新古書店などというモノがそれに拍車をかけたことは言うまでもない。

まぁ何が言いたいのかというと、あれだけデカい本棚を買ったのに、すぐに一杯になっちゃったんですね。当たり前の話。東京を離れ、今住んでいる所に引越すに当たって、でもう一本増設しようかと真剣に悩んだりもした。

運用履歴(2)

そんな折読んだのがコレ。

不良のための読書術 (ちくま文庫)

不良のための読書術 (ちくま文庫)

出版・書店業界御用達のライター・永江朗さんによる「不良のための読書術」である。書店人・ライターを経た業界での経験値と、おそらくは膨大なのだろう読書経験から語られる「読書感」に目からウロコが出っぱなしだった。中でも「本を閉じてからの大切なこと」という章は、自分の読書行為を一変させるエウレカであった。

増えれば増えるほど、本は活用できなくなる。
溜まってしまった本を前に、どの本を残してどの本を処分するのか悩むのも、これまたひとつの読書である。
本棚は常にあなたの「現在」を表わしたもので無ければならない。

何たる至言! 肩の荷が降りたような気になったのを、今でも思い出せる。本にしがみつき、本が「在る」こと自体に価値を見出すことの愚かさ。この本を読んで以来、本棚に入らない本は一切持たなくなった。気に入ったマンガがあれば全巻買いするし、久しぶりに大型書店に行けばまとめ買いもする。蔵書の量を制限したからといって、読むペースが落ちたなんてことは全然ない。

棚割図


職業病ですね。分ります。ちなみにジャンル内での並べ方は著者名の五十音順。ウチに来た友達の大半が、マンガ喫茶的な行為に及ぶのだが、それも悪い気がしないってもんです。かつて麻雀に狂っていた頃は、「天牌」全巻や麻雀の戦術書、「雀鬼」関連本など麻雀関係の本の占有率が異様に高かったが、やらなくなってからというもの、さっぱりと売り払った。本棚は常に現在の私を表わすのだ。

こうしてジャンル毎に並べていると、面白い実験ができるのでひとつ紹介してみる。本には平均単価というものがあって、文庫で618円とか、コミックが493円とか、これが結構詳細に決まっている。棚一段あたりに入る冊数も、棚幅何センチなら何冊という目安があるし、ウチ程度の冊数なら実際に数えることもできる。という訳で、現在持っている蔵書の概算金額を試算してみた。

結果、約634,000円(税込。CD除く)と出た/(^o^)\ 古本で買ったものも多いので、実際はこれよりかなり少ない金額なんだろうけど、それでも数十万。物心ついてから買っちゃ売りしてきた訳だから、感覚値だが、生まれてこの方この3倍は優に買ってるだろうし、雑誌なんかも含め出すともう何が何だか・・。本道楽というと稀覯本を集めるような骨董的なイメージを抱くけれど、私のような「ちょっと人よりは本が好き」程度の読書家でも、これだけの金をかけていることになる。「俺はかなりの読書家だぜ!」といえるような人なら、この2倍は余裕であるだろう。読書は金のかかる趣味。これは定説。

おまけ的なもの

  
【左】学生の頃必死に読んでたものの名残。「ドグラ・マグラ」は卒論テーマ。【中】マスターピース群。まず一生もの(左側は除く)。【右】思えば昔からこの辺の本は読みまくってた。あと色々必死な実用書。

  
【左】今持ってるラノベはこの程度。「θ」の作家は個人的な知り合い。続編マダー?【中】何故か手放せない「ペケ」と、聖典ナウシカ」。【右】クルマは最近の趣味。上に乗っかってるのは若気の至り。

ジブリ映画「ゲド戦記」を今更ながら視聴してみた

ジブリの無駄遣い

声優はいい。歌もいい。BGMも豪華で感動的だし、込み入った町並みや美しい自然などの背景もいつものジブリだ。構図は空間的だし、ジブリらしい「風」の要素を感じさせる画面作りだ。

でも良く考えたら、それは各セクションの職人たちが頑張っただけなんじゃない? 人物と背景とのアンマッチ感は目立つし、ワンカットを撮るにしても素人臭いパンが目について仕様がない。

敢えて言おう。クソであると。

結局の所シナリオ、物語なのだろう。グウィンのゲド戦記とは一体何だったのか? ファンタジーとは何なのか? 吾朗には正座して長考していただきたい。とりあえずこのフィルムから読み取れたのは、

アレン ('A`)マンドクセ ⇒ (`・ω・´)シャキーン

この程度でした。世界の均衡が崩れる? ムリムリw

「キラ☆キラ」プレイ中。千絵姉ルートを終えた所。

もうほとんど神ゲーとしか言いようがない。目からお汁が止まらない。


キラ☆キラ~Rock'n Rollshow~(通常版)

キラ☆キラ~Rock'n Rollshow~(通常版)


今、一通りエンディングまで終えました。ええ、神ゲーでしたね。君望マブラヴFateクラスの神の領域に完全に到達している。

エロゲーのパッケージにある「ジャンル」欄は、殆どネタのような形で各作品趣向を凝らすものだが(ex."強気っ娘攻略アドベンチャー"「つよきす」の場合)、キラ☆キラの場合どうか。メーカーであるOVERDRIVEのHPをあたると、

青春恋愛ロックンロールノベル

とある。その通りである。まず、大前提として本気でロックをやる青春モノというのがある。学祭のためにド素人がバンドを組んで、楽器を揃えて、スタジオに通って。何故か同級生にインディーズシーンでのスターがいて教えを乞うたりして。スーパーマーケットの正面でゲリラライブをやって、河原で練習して。ボロワゴンで貧乏ライブツアーをやって、ライブハウスでライブして。まず、こういった音楽面での本気っぷりがたまらない。ミッション系の学校なのに、校歌をパンクアレンジして学祭をジャックしたりする。こういうノリがたまらない。ちなみに、ゲーム内で使われている楽曲も、通常のエロゲでは考えられないほど、まじめにバンドサウンドを追及しているから凄い。普通に聴けるクオリティだ。CD買いそうだ(と思ったら「第二文芸部」扱いでアルバムだシングルだが出ること出てること)。

と、まぁ常識的な物語だったら、このような熱い青春モノで普通終わる。というか、これだけでも十分凄い。しかし、キラ☆キラの場合、それだけでは終わらない。濃い音楽生活を綴ったライブツアーまでをAパートとするなら、それに匹敵するほどのBパートが存在する。今のところ、千絵姉という主人公の1コ上の幼馴染ルートを終えた。ちなみにパートはドラム。彼女には両親の離婚と家族の崩壊、という重すぎるテーマがある。そもそもそれが原因で彼女は留年もしている。Bパート冒頭で、幼い頃はご近所の「千絵ちゃん」で、いつの頃からか疎遠になって、学園生活での一年間でバンドを組み急速に交流を深めていった「千絵姉」と、もはや必然の流れとして恋仲になる。そこで主人公は、千絵姉にかかわり、受け止めようとする。

物語の面白い所って、GAP・対比だと思っているのだが、このキラ☆キラはまさにそれを王道で行っている。明るくギラギラした青春ロック物語が一転し、受験・恋愛・家庭問題と、ディープでリアルな現実問題が否応なく現前する。にもかかららず重くなりすぎないのは、やはり学園最後の夏にやった本気のバンド活動があるからなんだ、とどう考えても読めてしまう。そして、千絵姉ルートの場合、両親の離婚に伴う種々の問題(父親との離別、父親の再婚相手との対面、精神的に参っていた母親との向き合い...etc)に、一応全部ケリをつけようとする。そのシナリオの粘り強さに感動を覚える。

そしてラストはやはりライブ、音楽、仲間に還元されていくこの熱さ・・。かつて、インディーズシーンをシンデレラの如く駆け上がって行った「第二文芸部バンド」の面々が、学園生活の最後を飾るべく行った「ゲリラライブ」で物語の全ては収束する。完璧としか言いようがない。

下世話な話、いわゆる僕の言う「出来のいいエロゲ」では、エロシーンは飛ばす。単なる進行上の一お約束に過ぎないからだ。だが、キラ☆キラ@千絵姉ルートは違った。違うのだ。読まざるを得ないのだ。二人がどうやってバンドを通して再開した幼馴染から、大切なパートナーへ変化していくのか。キモっ!! と思うかも知れない。自分でもそう思うもの。だが違うんだねぇ・・。


あとひとつ言及すべき点として、「けいおん!」との類似性が上げられる。奇しくもほぼ同時期に発表された「女の子バンドモノ」(キラ☆キラの場合厳密には違うがw)である。

けいおん!」 2007年5月「まんがタイムきらら」初出
「キラ☆キラ」 2007年11月発売

けいおん!」の作者であるかきふらい自身、「キラ☆キラ」発表当初からそれを意識するような発言があったようだが(要出典)、それにしても物語のクオリティとしては、天地ほどの差がある。京アニの仕事によって音楽面を強化されてアニメ化されなかったとしら、単なる萌え四コマに終わっていただろう「けいおん!」も、アニメ前提だがそれなりにバンドする女の子たちを描いてはいる(参照:「けいおん!」視聴−−「あずにゃん問題」を考える - 雑想ノオト - 良いモノに触れたときの感動は代替不可能だから)。だが、二つの作品の物語の出来は、明らかなGAPがあると言ってまず間違いない。言うまでもないが、知名度と物語の出来は反比例している。


まぁとまれ神レベルにあることは間違いない。キラ☆キラ。みんなやろうぜ!

手塚治虫「奇子」を読んでみた

奇子」と言えば・・

日本のヘヴィメタルバンド「陰陽座」の楽曲に、「奇子」(あやこ)というものがある。この「奇子」、手塚治虫の同名漫画を題材に作られていることは、陰陽座のファンの間では結構有名な話なんじゃなかろうか。重厚なメタルサウンドに透明で力強い女性ボーカルが美しい初期の名曲であるが、原作というか元ネタを読んでしまうと、その歌詞の中身が相当な所そのまんまであることに気付いて、結構面白かったりする。曲の真ん中ぐらいで女性ボーカルによる語りが入るのだが、それがまたこの曲のハイライトといって良いくらいスゴイ。蔵に閉じ込められた少女・奇子とその実母に、成長した奇子と思わしき3人目の声色を操り、それぞれの「奇子」世界を切なく歌い上げる。その歌声は、それこそ奇子が乗り移ってるんじゃないかと思えるほど真に迫っていて、ゾッとする。原作を読んでいれば尚のことである。

陰陽座には、手塚治虫の他にも山田風太郎の「忍法帖シリーズ」や京極夏彦を題材にした楽曲が多い。題材と言えば聞こえは良いが、元ネタのファンや版権元からしてみれば、コレって他人のふんどしで相撲をとってんじゃないの? という気になってしかるべき内容も多いと思うのだが、世の陰陽座ファンの人々はどう思っているのだろうか。「眩暈坂」とか、流石にそのまんますぎるし。ただでさえマイナー色の強い日本のヘヴィメタル業界に、和のイメージを持ち込んだ陰陽座の功績は結構大きいんだろうと素人ながらに思うが、惜しむらくはアリモノを持ってきちゃったことかと。パクリかインスパイアかオマージュか・・。もっと噛み砕いて完全オリジナルな世界観を構築できていたなら、評価も違ってきたんじゃないか。まぁそれでも、この「奇子」にしてもそうなのだが、陰陽座の楽曲の方こそを、手塚作品の同人的なノリで聞くのが健全なファン心理のあり方なのでは、とも思う。

誤解なきよう言っておくが、ワタクシ陰陽座は結構好きです。以上前フリ。


百鬼繚乱

百鬼繚乱


手塚治虫を語る・・のは無理

奇子」は手塚の仕事の中でも比較的後期の、青年向けの作品である。手塚治虫について本気で語ろうとしたら、優に本一冊分は必要になってしまうので(まぁ無理だが)、ここはいつものwiki先生に登場願おう。

手塚治虫 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7/

このエントリーを書くために調べて初めて知ったが、手塚治虫ってハンパなく多作なんですね(約600作!)。しかも少年向け・少女向け・青年向け・幼児向けと、普通の漫画家では考えられない程、幅広いクラスタを対象に作品を書き分けている。そもそも今われわれが普通に読んでいるストーリー漫画の基礎を作ったのも手塚だし、「鉄腕アトム」で日本で初めてテレビアニメを作ったのも手塚だしと、「漫画の神様」と言われるのも無理もない活躍っぷりなのである。そういやどっかの版元で学習漫画にも採用されてたよな、と思って探したらあった。

http://www.amazon.co.jp/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB%E2%80%9521%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E5%AE%B6-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E7%89%88-%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E4%BA%BA%E7%89%A9%E9%A4%A8-%E4%BC%B4-%E4%BF%8A%E7%94%B7/dp/4092701039/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1263630143&sr=1-2/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E4%BA%BA%E7%89%A9%E9%A4%A8/

ベートーベンと野口英世に挟まれてるしw もはや完全に偉人・天才扱いである。ちなみにこのシリーズ、藤子・F・不二雄が入っているようだが、コンビを組んでた藤子不二雄Aは入っていない。小学館学習漫画の新シリーズ立ち上げか⇒やはりドラえもんネタが欲しいな⇒とりあえず藤子F入れとくか」みたいな流れだったのだろうか。いずれにしろA涙目と言わざるを得ない。

「手塚」と言うと・・

今「手塚治虫」と言ったとき、そこには「名作・旧作」「優良図書」的なイメージを感じてならないのは私だけだろうか。マンガなんだけどPTA推奨みたいな。なんせ学漫にも入ってるぐらいだし。瑞宝章なんてもらってるみたいだし。ちょっと前に「国立メディア芸術総合センター」などというアホな政策があったが、もしそのセンターが実現していたなら、まず間違いなく筆頭作家として挙がってたんじゃなかろうか。

手塚プロダクションHP内にある「手塚治虫のメッセージ」なるコンテンツも、そんないかにもな手塚像をわれわれにアッピールしてくる。「愛」「生命」「友情」「勇気」「差別」「医学」など、1テーマごとに1作品を持ってきて、手塚の作品が語りかけてくる(とされる)メッセージを並べている。「奇子」はというと「自由」の項目に入っていた。短いので全文引用してみる。

自由を奪う。これはとても恐ろしい行為です。
すべての生き物にとって、自由を奪われることほどつらいものはないのですから。
だから罪を犯した人は自由を奪われ、それが刑に服す、ということになっているわけです。
ここに紹介した『奇子』という作品では、ひとりの少女が狭い蔵に閉じ込められ、そこで成長して行きます。
大人たちの思惑の犠牲になって自由を奪われたひとりの少女――。この少女のつらさを想像してください。
そして自由に走り回れるということの喜びに気づいてください。
囚われの身ではない、ということだけで、無限の可能性の中で生きていられるんだと感じられるはずです。

http://tezukaosamu.net/jp/message/freedom03.html/


え? 「奇子」ってこんな話だっけ? 手塚の大人向けマンガって、いわゆる手塚のイメージからは遠いダークな話が多いし、この「奇子」も例外じゃないはずなんだが・・。これだけ読むと「奇子」ってエライ啓蒙的な話なんだなぁと思えてしまうのだが・・。

奇子の成長記録

他者の評価はさておき、とりあえず読んでみての率直な感想を述べるとだな、奇子エロ過ぎ。ロリ奇子可愛過ぎ。なんでかは知らんが、第1〜10章の幼少期の奇子の登場する全てのコマが神がかって見えるんだ。もうロリコンでいいや。という訳で、謎の衝動に駆られ、「奇子」の物語内に記されている年号を追っかけて、奇子の章ごとの年齢を確定させてみました(作成時間:約30分)。

第1章〜10章(幼少期)
昭和24年【4歳】⇒蔵に閉じ込められる


第11章(成長期)
昭和25年【5歳】
(時間経過/見た目変化)小学校高学年〜中学生? 伺朗*1が学ラン)
(時間経過/見た目変化)初潮を迎える


第12〜13章(青年期) 
昭和36年【16歳】⇒伺朗*2とヤる


第14章(青年期)
昭和36年【16歳】⇒医師・山崎に襲われる(未遂)


第15章(成年期)
昭和47年2月【27歳】⇒奇子東京へ


第16章(成年期)
(時間経過なし)


第17章(成年期)
波奈夫*3「二十三年も蔵ン中に」「計算なら二十七のはず」
⇒この章で昭和47年の段階で27歳ということが確定する


第18章(成年期)
「すっかり春」⇒昭和47年のまま


第19章(成年期)
(時間経過なし)

 
上記により、ロリ奇子は4歳であることが判明しました。「ヤる」だの「初潮」だの、アレなタームがあるが、実際そういう話なんだから仕方がない。あと漫画を読めば分かるが、幼年期・成長期・青年期・成年期と、手塚は4パターンの奇子を書き分けている。

奇子」のあらすじ

奇子」のあらすじを簡単にまとめると、旧地主である天下(てんげ)家の人々の顛末を描いた物語、ということになる。

外地から復員してきた次男・仁朗が天下家に戻ってくるところから物語は始まる。仁朗は彼の出征後に生まれた末女・奇子と対面するが、それはどう見ても兄嫁とクリソツであった。母や長女を問い詰めるも、表情を曇らせるだけ。表向きは天下家の次女として育てられる奇子であったが、事実は親父が兄貴の嫁との間に作った子であった・・というドロドロな設定が「奇子」のベースとなる。前近代的な家父長制度が支配するムラ・イエ社会では、当主の権力は絶対であり、家督を守ることが絶対視される。そこには、天下家の権力を背景にした「暗黙の了解」が始終蔓延しているのだ。

物語の冒頭から明かされていることではあるが、仁朗はGHQの秘密工作員だったりする。とある任務中、仁朗は証拠隠滅行為を目撃されてしまうが、それは奇子と、知恵遅れの使用人の娘・お涼によってであった。仁朗はお涼を殺す。天下家にいよいよ警察が介入し、家名にキズがつくことを恐れた長男は、奇子に甘い親父の反対を押し切り、唯一証拠を握っていた奇子を蔵へ幽閉してしまう。しかも戸籍上、奇子は死亡したことにして。

・・と大体ここまでが第1〜10章の流れ。奇子の幼少期にあたる最初の10章は、奇子が蔵に幽閉されるまでの話であり、「奇子」全体の序章にして物語の土台としての役割を果たしている。その間にも、仁朗サイドでは諜報活動の詳細を描いたり、共産主義活動をしている長女のシーンがあったり(仁朗の任務にも関係してくる)、警察側からの描写があったりと、かなり重層的でディープな物語が展開されている。思いっきりネタバレしといてなんだが、これだけでも「奇子」が相当に読みでのある漫画であることがうかがい知れよう。

第11章〜14章では、奇子の(主に性的に)捻じ曲がった成長っぷりを描く青年期編が、それ以降の15章では舞台を東京に移した成年期編が描かれる。メンドイのであらすじはここらへんにするが、細かい設定や登場人物の言動、物語の流れを一旦おいておくとするなら、「奇子」は20数年間社会と隔絶して育った一人の少女にフォーカスした物語でもあるのだ。

奇子」に萌えるのはなぜだろう

そう、「奇子」は「萌え」の先駆けに他ならない。啓蒙作品でも、PTA推奨なんかでもない。なんせ監禁ロリに近親相姦である。かの手塚大先生が創り上げた、現代の萌えブームの元祖たるマンガなのである。というかマジメな話、キャラクターとしての奇子は、明らかにセクシュアリティの対象として描かれていることは、読めば誰でも分るようになってるから。

奇子は土中の地虫が
何度も脱皮するように
急速に少女から
成熟した女に変身していった
(略)
なんの損傷も はげしい作業による
疲弊もない彼女の肉体は
幼さとひよわさの中に
マネキン人形のような 人間ばなれした
清潔さをもっていたのだった
(第15章)


「籠の中の鳥」的な眼差しというか、弱者に美を見てしまう欲望の眼差しというか。特に幼少期時代のこと細かな描写など、対象との距離のとり方が非常にフェティッシュで、どう考えても現代的なオタク的な視点で読めてしまうのだ。このマンガは。奇子と腹違いのきょうだいにもかかわらず、肉体関係を持ってしまった伺朗の台詞が、そのあたりを雄弁に物語っている。

奇子はな、納戸の奥にしもうたひな人形みてえに、もう日の目は見んのでなす」(第13章)
奇子はもうだれにも触れさせねえよ。ガラス越しにそっと鑑賞するだけだよ。温室の鉢植えのようにな」(第13章)


伺朗という登場人物の奇子へのコミットのし方を、そのまま今日的な「萌え」の感受性に置き換えて何かおかしい所があるだろうか。「漫画の神様」が自身の仕事の後期に手がけた重厚なストーリーマンガは、一方で、オタク的な眼差しを多分に含んだ萌えの萌芽であった・・なんて言っちゃってもいいですかね?


奇子(1) (手塚治虫漫画全集)

奇子(1) (手塚治虫漫画全集)

奇子(2) (手塚治虫漫画全集)

奇子(2) (手塚治虫漫画全集)

奇子(3) (手塚治虫漫画全集)

奇子(3) (手塚治虫漫画全集)

*1:実兄です。

*2:何度も言うようですが実兄です。生物学的には腹違いの兄だが、戸籍的には実兄です。

*3:東京での奇子の同棲相手。

「Fate / stay night」映画化を思う。

明けましておめでとうございます。仕事の忙しさにかまけてたら、1ヶ月以上も放置してしまいまして。この休暇で、読書したり文章書いたりといったアタマが何とか戻ればと思っています。


さて、Feteですが。今月の23日(土)から劇場公開が始まるそうです。

http://www.fatestaynight.jp/index.html

結構前にPCゲームをやった時の書き殴りめいた文章を上げましたが(「Fate/stay night」読了 - 雑想ノオト - 良いモノに触れたときの感動は代替不可能だから)、Fate映画化のチラシを見た際、その時の面白さを思い出してしまい・・今やっとこさTV版を全部見終わったところです。


Fate/stay night 1<通常版> [DVD]

Fate/stay night 1<通常版> [DVD]


元々3つのストーリーが平行してある作品なのですが、それらの内ひとつ(「セイバー」ルート)をメインに据え、残りふたつをサブ的に噛ませるという構成でした。器用にまとめたもんだなぁと最初は思ったりもしましたが、東浩紀先生の「ゲーム的リアリズムの誕生」で散々出てきた論をよくよく思い出してみましょうよ。3つの物語(=可能性)が同時に平行してあるんだとプレイヤーが感じることが出来て初めて楽しめる、そういうものだったじゃないですか。この手のノベル・ゲームって。器用も何も、単に一番無難な「セイバー」ルートをベースにして、ちょっと他のルートから味付けを持ってきただけじゃないかと。1回限りのアニメだから仕方のないことなのかも知れませんが、特にノベル・ゲームを原作にする以上、原作が本来もつ、主人公が選択していく雰囲気と言いましょうか、あの感じを出さんとイカンのじゃないかと。



で、見てみての感想ですが、まぁ何と言いますか、原作PCゲームの面白さを「桃屋のつゆ」原液とすれば、アニメ版は素麺用に水で3倍に希釈した感じでしたね。残念ながら。Fateを何とかアニメで表現しよう、といった気概や工夫は、ついぞ感じることは出来ませんでした。すごく失礼な物言いをすれば、「やっつけ仕事」臭が漂ってくるんですね。さすがに「ヤシガニ*1級の酷さってことはないのですが(パッと見の作画は及第点だし、声優も良い)、それでも原作Fateで感じた衝撃を前にしたら、その物語の根幹にかかわる質の落差は、ちょっと致命的なんじゃないでしょうか。

物語の枠組みがダメなのを差し引いたとしても、戦闘シーンとかのアクションは今日び平均以下だし、アニメ版特有のカットやアングルといった映画的なこだわりがある訳でもないし、原作が売りにしてたディティールを細々と説明するシーンもイマイチと・・。

そこで、劇場版ですよ。普通ならこれで高クオリティなFateが見られる、と思うところなのですが。製作会社・スタッフ共に、ほぼスライドだそうですよ〜/(^o^)\ まぁそれでも救いがあるとすれば、映画のサブタイトルに「UNLIMITED BLADE WORKS」とついている所。これはどういうことかと言うと、「セイバー」ルートをベースにして、他の2つのルートを混ぜこぜにしたようなTV版ではなく、始めから「凛」のルート一本でいきますよ、というサイン・・だと思いますきっと。

つかね、別にFateでも何でもいいんですが、ハマった原作がレ○プされていくのを見るのは、もうコリゴリなんです。世の制作関係会社の皆様、ホントお願いしますよ・・。

*1:(いわゆる「ヤシガニ問題」。アニメ業界の暗部が、皮肉にもフィルムそのものに表象されてしまった現象。参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E7%94%BB%E5%B4%A9%E5%A3%8A/

新刊チェック・赤松健「魔法先生ネギま!28巻」

+(0゚・∀・) + テカテカ +


魔法先生ネギま!(28) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(28) (講談社コミックス)


いやー、何なんだろうね、このワクテカ感は。単なるハーレム学園モノだと思ってたら大損こくよ、このマンガは。エンタメってのは何か、物語とは、人を楽しませるってのはどいうことなのか、この作者はよ〜く解ってる。なおかつ少年誌のエッセンスもきちんと押さえてる。アラサー諸兄なら共感していただけるだろうか、中二ぐらいの時に「幽遊白書」を再読して、リアルタイムで読んでた小学生の時には解らなかった富樫の面白さに、急速に目覚め始めた・・何かその時の感動を思い出すんすよ。

一気読み中 姫野カオルコ

一通り自分の読みたいテーマが落ち着いて、では次は何に取り掛かろうかな・・という時があるかと思います。そういう時、本棚から取り出してるのがコレ。


本の本―書評集1994‐2007

本の本―書評集1994‐2007


表紙のデータじゃ実感ないですが、この本3〜4センチぐらい束があって、重さも非常にある。中身は著者が新聞や雑誌に書き続けてきた書評を、対象となる本のテーマに沿って編集したもの。コスト削減が至上命題なのは出版業界も例外ではない、そんなお寒い昨今、新潮文庫に付いてるような「栞ひも」がナント2本もついてる太っ腹。数えたわけじゃありませんが、収録された書評は100コぐらいあって、その一つは物にもよりますが大体が2ページ程度。そう、まさに「読書事典」なのですこの本は。「本の本」とは何ともメタ的、この本の性格をよく表わしているとは思いませんか。

著者のファンなので、出張中にも拘らず店頭で見つけた瞬間、大荷物になるのも忘れレジに持ってったものです。しかも最初何を思ったのか、私、この本(事典?)を頭から通読しようと思ったんですね。まぁ3分の1ぐらいで挫折しましたが。この本は目次と索引をフル活用し、読むのではなく「引く」のが正しい使い方のようです。手元に置いて常にリファレンスできるようにしたいヤツ。書評の中身自体は、斎藤美奈子とは言え、ぶっちゃけレベルに上下があります。が、これも本書の主旨からすれば余り気にならない事。むしろ出来の悪い書評でも何でも、網羅的に集めてくれた事の方が事典として価値が上がるってもんです。彼女の仕事をカヴァーするのが「1994年〜2007年」だそうなので、鮮度的にはもうちょっと持ちそうです。

で、姫野カオルコです。前置きが長いのはいつものこと。

名前は知ってたんですが、実際に読んだのは「本の本」で取り上げられたのを見てからですね。書評の中身は微妙、みたいな失礼千万なことを書きましたが、それでも何の気なしに飛ばし読みをしていると、ピクッっと引っかかる所が出てくるんですね。で、はじめて読んだ姫野カオルコがこちら。


ツ、イ、ラ、ク (角川文庫)

ツ、イ、ラ、ク (角川文庫)


どうですこの表紙のセンス。「ツ、イ、ラ、ク」っていちいち打たれた点々のいやらしさ。これで、著者の名前が「姫野」ですよ。極めつけが、裏表紙のあらすじ、「恋とは、『堕ちる』もの。」。「恋とは」のあとの「、」、このタメもまたエロウザイ。どう見ても普段の私の読書傾向からだと、手に取りようがありません。一時(2000年代初頭)芥川賞近辺で、日常的な身辺の雑事とかを「なんくるない」一人称視点で描いた、「ばななチルドレン」群ともいえる女流作家の流れがありましたが、アレらの系譜に恋愛要素を加えたような、小娘系ちゃらちゃら文学にしか見えませんでした。正直スマンかった。

まぁ美奈子氏も言ってますが、そういう誤解も全部予想した上での策略なんじゃないか、ぐらいの作家ですからねこの人は。なにせ名前の「カオルコ」の由来を、「オカルト」と「オ×ンコ」を足して適当につけただけと豪語してますから。今、初期のエッセイとか短編集に戻って、刊行順に読んでるんですが、そういう前知識があるとナルホドなと思えるから面白い。

ハッキリ言って初期のものは小粒が多く、「ツ、イ、ラ、ク」クラスを描くにはまだまだ作家としての技量が伴ってないのかなと思わされるし、エッセイも世代がひとつ違うからイマイチピンとこない(80年代後半から90年代ぐらい。紫門ふみ「あすなろ白書」とかあのあたり)。今純粋に作品として読むに耐えるのは、あんまりない感じです。が、まぁそれでも頑張って読んでみてる訳なんですが、一種の思考実験というんですかね、ひとりの作家を、エッセから短編集、長編まで、玉石混合ひっくるめて読んだ時、何か見えてくるものがないかなぁ、と。たしかに、"ヒメノ式「女の一生」"とキャッチフレーズの振られた近作「ハルカ・エイティ」とか読んだ後に(最初、すんごいカッコイイおばあちゃんが出てきて、大正時代のド田舎からストーリーが始まる、超スケールのデカイ小説)、初期の実験小説「A.B.O.AB」とか読んでみるとあまりの落差にガックリきてしまいます。・・ですが、何とか頑張って全作制覇したい所。割と多作(職業作家の証)なんで苦労もしますが。

余談ですが、思いっきり話は飛びますが、同時に読んでた「化物語」の「ツンデレちゃん」とこと戦場ヶ原ひたぎ。あのキャラクター、ヒメノ式に読解すれば、「男に媚売る傲慢女」ということになります。無意味に勝気で、ちょっと不思議がかってて、こちらがドキリとする程の積極的なあのキャラ造形は、まさにゼロ年代のオタク男子の欲望の体現でしかないことが、ありありと判るんですね。ヒメノに言わせれば、あの女、自分が魅力的であることを熟知しており、1ミリグラムも暦くんに振られることを信じて疑わない、それでいて男の気を引くことに長けた、「うぬぼれたあぶらっこいスケベ」(「愛は勝つ、もんか」角川文庫)ということになるんですね。レイニー・デヴィルにボコられた暦くんに己の下着を見せつけ「大サービス」って、どんだけ高慢なんだよと。



で、以前から愛用しているターム「前髪系男子」(主人公の男)ってのは、過剰な自意識と無意味なヒーロー補正を取り除いてやれば、彼女らのようなビッチ共に翻弄される、哀れな草食系男子ということになる訳ですね。

閑話休題。まぁいずれにしろ、姫野ウォッチングは暫くやめられそうにありませんな。何つったって、あの痛快な程の物言いがたまらんし、エッセイとかで自分の恥部をネタに出来た上でのそういう発言だからね。いつ「ツ、イ、ラ、ク」とかの本気モードになるか楽しみにしつつ、今まだ1990年代刊行群のエッセイやら小品を読破中です。